幻影ヲ駆ケル太陽

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幻影ヲ駆ケル太陽~こぼれ散るは運命の砂~

episodio3 幻影

止まらない。胸の、鼓動が。
 覚醒した時よりもずっと、速く、強く。
 ひなたは、身体の奥からわき上がってくる熱い何かを感じていた。それはまるで、心臓をぎゅっと手でつかまれたような、痛みにも似た感覚だった。
 そんなひなたの気持ちを察したのか、はたまた、同じように不安を感じていたのか、隣にいたアメリーが、ひなたの手を握りしめた。
「大丈夫だよね? あたし達」
「……うん、大丈夫。だって私達は……」
 ひなたは覚悟を決めた表情で前を見る。
「私達は……タロット使いだもん」
 二人は、巨大な転送装置に立っていた。
 空間に浮かぶ無数の歯車が、きしんだ重い音を立てながらぐるぐると回っている。
 時計塔の地下にある『運命の部屋』と呼ばれるこの場所は、タロット使い達がスムーズにアストラルクスに入るのを手助けする部屋である。
 今日はついに、初陣だ。
「それでは、行きましょう」
「覚悟はいいな?」
 声に振り返ると、いつの間にかエティアとアリエルが二人の後ろに立っている。ひなたとアメリーは、静かに頷いた。
 あらかじめ用意された、鳥かごのような入れ物に、ひなたとアメリーはそれぞれ入る。鉄が軋む音と共に、かごは上方へと向かう。
いよいよ、戦うんだ──。
ふと心を緩めたら、決心が鈍ってしまいそうになる。すぐにでもここから逃げ出して、どこか遠くに行ってしまいたくなる。
 でも、それは許されない。逃げたら──逃げても終わらない。
 速い鼓動を抑えようと、ひなたは大きく深呼吸した。
 ガコン、という鋭い音を立てて、足下の床が外れる。そのまま二人は、眼下に見える赤いマグマのようなアストラルクスに落下していく。
 ──怖い!
 そう感じた瞬間、光に包まれたひなたとアメリーは、幻影の世界へと消えていった。
必殺技を完成させ、戦いに思いを馳せていたひなたとアメリーが、エティアとアリエルから「話がある」と言われたのは、初陣の三日前の事だった。
 その日の余津浜は朝から冷え込み、エティアの書斎から見える窓の外は、今にも雪が降り出しそうな厚い雲に覆われていた。
 暖炉の火は、いつもより激しさを増しているように見えた。バチっと音を立てて薪がはぜる度に、内側にくすぶる何かが、とある瞬間に爆発するかのように思える。
 エティアの書斎に呼ばれたひなたとアメリーは、ソファに座り、その不思議な緊張感に戸惑っていた。
 一人がけのソファにエティアが座り、別のスツールにアリエルが腰をかけている。使い魔達は、ただのペットであるかのように振る舞いつつ、ひなたとアメリーの一挙手一投足に神経を集中させている。
 その張り詰めた緊張を緩めるように、そっと、エティアがれたての紅茶を差し出す。それはまるで、エティアが自分自身の気持ちを冷静に保つための、儀式のようにも見える。
 曇った窓の向こうで、雪が降り始めていた。
 ひなたとアメリーが、バラの香りがする紅茶を一口、口に運んだ後、ゆっくりとエティアが口を開いた。
「……お二人には、ダエモニアについてお話しなければなりません」
「ダエモニアについて?」
「人の心に取り憑く悪霊っていう話なら、前も聞きましたけど……?」
 アメリーが疑問をストレートにぶつける。
 ダエモニア──人間が持っている負の感情につけ込み、欲望を叶えることを条件に、人間と契約する悪霊。
 それを倒すには、ひなた達の持つ、エレメンタル能力が必要だということは以前にも聞いている。それ以上に、何か懸念することなどあるのだろうか?
「ダエモニアは、人の心を喰らう悪霊だ」
 アリエルが、ひなた達の方を見ずに言った。
「人間の持つ弱い心を誘惑し、その魂と引き替えに肉体を乗っ取る。一度、ダエモニアと契約し、取り込まれた人間は──二度と、元に戻ることはできない」
「えっ?」
 アリエルの言葉を聞き、ひなたは初めて引っかかりを覚える。
 二度と元に戻ることができない──?
 それは、つまり──?
「ダエモニアを殲滅せんめつするためには」
 ゆっくりと、エティアが口を開く。
──宿主である人間を、殺さなくてはなりません。
重く、だがはっきりと言ったエティアの声が、ひなたの頭の中でぼんやりと響いた。
「それは……あの……」
 ひなたは思わず、エティアを見つめて尋ねる。エティアの言葉が、一瞬、聞こえなかった気がしたのだ。いや、正確に言えば、聞こえていたが認識できなかったような気がした。
「言葉の通りだ。ダエモニアを殲滅するには、取り憑かれた人間を殺す。それ以外に方法はない」
「!」
 ひなたとアメリーの顔に驚きと緊張が走る。アリエルは構わないといった風に、淡々と言葉を繋いでいく。
「もし、ダエモニアと戦わなければ、エレメンタル・タロットを持つ我々が、命を狙われる。そこには死があるのみだ」
「……他に、方法はないんですか?」
 一瞬、意味のない質問かもしれないとひなたは思ったが、聞かずにはいられなかった。方法があれば、エティアもアリエルも、もっと他の手段を取っているだろう。だが、たとえ一縷いちるの望みでもすがりたかった。
「例えば……捕まえるとか。ダエモニアに取り憑かれたからって、どうして殲滅しなきゃいけないんですか?」
「殲滅した後も、ダエモニアは増え続ける。おそらく、ダエモニアが人と接触することで、増えるのだろう。例えば、吸血鬼のように」
 その言葉に、アメリーが小さなうめき声を上げる。
「それを少しでも減らすためには、殲滅することしかない。対処療法だがな」
「殲……滅……」
 ひなたは思わず俯いてしまう。
 頭が重い。ひどく重い。
 考えようとすればするほど、どうすればいいのかわからなくなる。
「でも……私達がダエモニアだった人を殺してしまったら……その人たちの家族や、友人は……?」
「記憶を失います」
「えっ?」
 淋しそうに瞳を伏せながらエティアが言う。
「周りの人々から……ダエモニアになった人の記憶を消去し、改竄かいざんします。最初から、存在しなかったことにするのです」
「そんな……!」
 話を聞き続けることに耐えられなくなったのだろう、アメリーが両手で顔を覆った。
「できない……無理……あたしには……」
「やってもらうしかない」
 まるで鞭を振るかのような鋭さで、アリエルの言葉がひなたとアメリーの心を打つ。
「でも、私達は……」
 ひなたがアメリーの気持ちを代弁しようとしたその時、
「受け入れてください」
 ふいに、エティアが口を開く。きっぱりと言い切るように二人を見た。
「ダエモニア殲滅は、私達にしかできないことです。これはタロット使いの宿命です。エレメンタル・タロットを操る者は代々、歴史の中でダエモニアを殲滅してきたのです。だから!」
 珍しく、エティアの口調がいつもより早く感じられる。
「だから……受け入れなさい……」
 絞るような声で、エティアが言う。
 おそらくもう何度も、この言葉を口にしてきたのかもしれない、そんな話し方だった。感情を殺し、伝えなければならない要点だけを伝える──。アリエルも、同じだ。二人は、長年同じ事実をタロット使い達に告げてきた。何度も何度も同じ局面を体験し、心を硬い何かで覆わなくてはならないような──。
だが、ひなたがそう思えるようになるのは、ずっと後になってのことだった。
 今はただ、エティアとアリエルの言葉に──ひなたとアメリーは戸惑い、圧倒された。
       *     *
寮に戻ったひなたとアメリーは、しばらく黙っていた。午後三時になったところで、アメリーが口を開いた。
「……外、行こっか」
「えっ?」
「許可もらってさ。余津浜に行きたい」
 アメリーが小さい声だが強く、ひなたに言った。少しでも気分を変えたい、アメリーは、そんな気持ちなのだろう。
十二月に入ったばかりの余津浜の街は、降った雪ですっかり白くなっていた。夕方のせいか、行き交う人の足並みも早い。ひなたとアメリーは、港に停泊した船が見えるベンチに腰掛けている。
 遠くでかすかに汽笛の音が聞こえる。頭の奥がしびれるようなその音は、冷たい風と混じり合うように、二人の心を冴えさせた。
 目の前に、幸せそうな二十代のカップルがいる。寒さから身を寄せ合い、女性の手は、男性のポケットの中に入っていた。楽しそうに笑い合うその姿。恋を知らないひなたとアメリーには、どういう気持ちで女性が男性と向き合っているのか、まだわからなかった。
「もし……」
 と、アメリーが小さく口を開いた。
「あの男の人がダエモニアになったら……あの女の人はどうなるのかな……?」
「……一人になっちゃうんだろうね」
「せっかく恋をしてるのに?」
「……恋をしていたことすらも……忘れてしまう……」
「それを後押しするのは、あたし達なんだ……」
 アメリーがぎゅっと、コートの裾を摑んだ。
「ダエモニアは、ちょっとした悪い心にも入り込む……それって、誰がダエモニアになっても、おかしくないってことだよね?」
「……うん」
「……自分の大切な人がダエモニアになったら、どうすればいいんだろう? ママとか……友達とか……もし、ひなたが……!」
 そう言って、お互いの顔を見合わせた時、言いようのない絶望感がひなたとアメリーを襲った。
「そうはならないよ」と言いたいけれど、言える根拠はどこにもなかった。
 もう一つ、鈍く、長く、汽笛が鳴った。
 船を見ているあの親子連れが、ダエモニアになるかもしれない。雪の中、犬とはしゃいでいる、あの子供達がダエモニアになるかもしれない。公園の中を雪かきしている、あのおじさんも、前に行った中華街で肉まんを売っていた、あのおばさんも、セフィロ・フィオーレにいる友達も──。
漆黒のタールのようなどろっとした感情が、ひなたの胸を覆っていく。そのタールはやがて、髪の毛のように一本一本、繊維状になり、ひなたの心を締め上げていく。もがけばもがくほど、その太いロープは容赦なくひなたを締め付ける。
 思わず、助けを求めようとアメリーを見る。隣のアメリーは、こらえきれずに泣いていた。
「アメリー……」
 その瞬間、ひなたは、自分の暗い気持ちを反射的に押し込めてしまった。
「大丈夫だよ。ね?」
 嗚咽し、震えるアメリーの肩に、静かに手を触れる。
「帰ろう……」
 アメリーを促し、ひなたはベンチから立ち上がった。
エティアとアリエルは、セフィロ・フィオーレの中庭から、目の前に広がる銀世界を見ていた。夕方の弱い光が、二人を照らし出している。
「何度やっても、うまく伝えられないわね……」
 白い息と共に、エティアが漏らす。
 良心の呵責など、もうとっくに失われていると思っていた。少女達に残酷な運命を伝えることは、自分の使命だ。もう何人もそうしてきた。今回が特別ではない。
 だが、やはり──土壇場で躊躇ちゅうちょする。
できることなら、言わなくてもいいのなら、避けてしまいたい。逃げ出してしまいたい。
でも当然ながらそれは、許されない。
もし自分たちが逃げ出してしまったら、それこそ、残された少女達は、行き場を、なすすべを無くしてしまう。
どんなに苦しくても、どんなに辛くても、この役目を受け入れなくてはならない。
エティアは、運命共同体であるアリエルの方を、そっと見つめる。
「ごめんなさい、アリエル……いつも、あなたに頼ってしまって」
「気にするな。人には役割がある。多少厳しく当たるのは私の役目だ」
「タロット占いなら、カードの解釈によって運命を変えられるのに……この運命だけは、絶対に変えられない」
「…………」
 エティアの言葉に、珍しくアリエルがうつむく。
「きっと、これからも……」
 刺すような寒さが、二人の身体を固くしていく。だが今日は──その寒さに身をゆだねていたかった。暖かさを知れば、二人の心の、一番奥にしまわれた何かが、溶け出してしまいそうだったから。
 エティアはスカートを押さえながら屈むと、目の前の雪を少し、手に取った。
 おそらく、運命から逃れられないのと同様に、許されることは一生ないのだろう。ダエモニアを殲滅することも、その過酷な運命を、少女達に伝え続けることも──。
 手の中の雪は、すぐに水になり、エティアの手からこぼれ落ちていった。
余津浜から寮に戻ったひなたは、アメリーを食堂に無理矢理連れてきた。
「食べよう、ご飯」
「えっ……? でも、そんな気分じゃないでしょ?」
「そんな気分じゃないから……食べないと」
「…………」
悲しいこと、辛いことがあった時こそ、人は食べなければダメよ──。
祖父の葬儀の時に、祖母が言っていた言葉を、ひなたは思い出す。
 まだ幼稚園児だったひなたは、祖父が死んだ悲しみを、うまく理解できずにいた。周りの大人が泣いていたので、雰囲気に呑まれて泣いていただけで、死の意味も、悲しみも、どういうものかよくわかっていなかった。泣くのに飽きると、突然、ひなたはお腹が空いてきた。だから、祖母から優しく「食べていいわよ、ひなた」とお許しが出た時は、子供心にとても嬉しかった。
今思えば食べることは、悲しみや辛さに取り込まれないための、祖母の、精一杯の抵抗だったのかもしれない。
 ひなたは、気の進まないアメリーの前に、釜揚げうどんを差し出す。天かすと卵、だし醤油のシンプルなものだ。
「……ひと口だけでも食べよう」
 その言葉に、アメリーはこくりと頷く。
 ひなたも、アメリーも、箸を握ったが、ひと口目を取る手が、なかなか動かない。胸の奥につかえている何かは、何度も何度も、ひなたの、アメリーの、ため息に変わる。
自分から言い出したのだから、食べよう。
 一旦、無理矢理気持ちを切り替え、うどんをひと口、食べ始める。すると、ひなたのその様子を見たアメリーも、食べ始めた。うどんのすする音だけが、食堂に響く。
 食べているうちに、ひなたは、鼻の奥がつんとしてきたことに気がつく。それがすぐに一筋の涙になる。慌てて脇にあったティッシュを取り、アメリーに悟られないように拭う。
 ふと、前に座るアメリーを見る。
 アメリーの顔は、涙でぐじゃぐじゃだった。
「……あたし、バカだ」
 ぽつりと、絞り出すような声で言った。
「何もわかってなかった……エレメンタル能力のことも、覚醒のことも……。ただ、憧れて……必殺技なんか作っちゃって……」
 箸を置くと、両手で顔を覆って泣き出す。
 「自分が嫌い! 自分の運命も、タロットの力も……こんなもの、無ければよかったのに!」
 泣いているアメリーを、何とか慰めようとしたが、ひなたは言葉が続かなかった。ひなたの瞳からも、我慢していた涙が雨粒のように、次から次へとこぼれた。
「……わかってるよ。逃げられないし、本当は覚悟を決めなきゃいけないのだって……」
 声にならない小さな声で、アメリーが言う。
「うん……」
「でもさ、ひどいよね。あんまりじゃん……」
「うん……」
「ねぇ、怒ってもいいよね? 何で! どうして! こんな理不尽なことってないよ!」
 アメリーは泣きながら怒っている。
 だが、ひなたは怒る気にはなれない。
「ひなたも怒っていいんだよ!」
「……うん。でも、私には無理……」
「また! 何でそんなに優しいの? あたしがいっぱい泣いてるからでしょ? 我慢しなくていいのに~! ひなたのばかぁぁ!」
 立ち上がったアメリーが、ぎゅっとひなたを抱き寄せる。ひなたも、アメリーを静かに抱きしめる。
 ひなたの心に、いろんな気持ちが一気に、高波のように押し寄せてきた。
 おばあちゃんの言葉。
 エティアの淋しそうな顔。
 アリエルの厳しい声。
ダエモニアを殲滅するには、人を殺さなくてはならない──。
私達に、人の人生を終わらせる権利なんてあるのだろうか?
 逃げ出したい。
 でも逃げたら? 誰がダエモニアを殲滅するの? 私達にしかできないことなのに。
 私とアメリーは、これからどうなるのだろう?
 混沌とした想いがスープのように混ざり合い、涙になってひなたの頰を濡らす。
「でも……やるしかないと思う」
 ひなたは、涙を指先で拭った。
「……覚悟を決めるしか、残された道はない。ダエモニアが増えたら……ダエモニアの意のままに、罪のない人が殺されてしまうかもしれない。ダエモニアになった人だって……」
 心の隙間につけ込まれた人は、ダエモニアになったことを、後悔するのかもしれない。変わってしまった自分の姿を、心を、忌み、憎んで──。
 何にしても、エティアの言う通り、殲滅しなければ、何も終わらせることはできない。
「私はエレメンタル能力を……この連鎖を終わらせる能力を持っているのに、逃げ出して、他の誰かに押しつけたとしたら……押しつけられた誰かの心が傷つく」
「…………」
「誰かが傷つくぐらいなら……私が、やる」
「ひなた……」
 アメリーが驚いてひなたを見つめる。
「どうして……どうしてそんなに強くなれるの?」
「強くないよ。ただ……私だけじゃないって思ったから」
「えっ……?」
「エティアさんも、アリエルさんも、おばあちゃんも、みんな……きっと、たくさん悩んで苦しんだのかなって思ったの。だから……」
「もっと自分主体でいいんだよ、ひなた!」
 アメリーの声に、力が入っている。
「嫌なら嫌だって言ってもいいんだよ。そんなに飲み込まなくてもいいんだよ!」
「……飲み込んでないよ。ただ、ここでもし私が戦わなかったら……私が後悔する。みんなが辛い思いをする方が、私にとっては辛いから」
「もうっ……ひなた!」
 アメリーがぎゅっとさらに、ひなたを抱きしめる。アメリーは泣いていた。ひなたも自然と涙がこぼれた。
今日ぐらいは泣いてもいいだろう。
 明日からは、もう泣くこともできないだろうから──。
初陣の前日。ひなたとアメリーは、タロット使いとして、ダエモニアと戦い続けることを決めた。二人はその証に、儀式をすることにした。
 場所は、覚醒したあの時計塔。昼休み、一時の鐘が鳴り響く瞬間に、二人は余津浜で買った、水玉のリボンをお互いに交換することにした。ひなたは自分の赤いリボンを、アメリーは青いリボンを、互いの手に握らせる。
「なんか、結婚式みたい……」
 照れたように、ひなたが微笑んだ。
「じゃ、予行演習ってことで~」
 明るいアメリーの言葉に、うん、と二人は頷き合う。
「太陽ひなた、あなたは、健やかなる時も、苦しい時も……この運命を受け入れ、ダエモニアと闘うことを誓いますか?」
「……誓います」
「アメリー・ラムール、あなたは、いついかなる時も……宿命から逃げ出さず、ダエモニアと闘うことを誓いますか?」
「……もちろん、誓います」
 そして二人はリボンを交換し、お互いの髪に結わえる。
「逃げないよ。絶対に」
「あたしも」
「一緒に、汚れよう」
「うん」
 二人は静かに頷き合う。
 子供じみた儀式だということは、よくわかっている。でも──何か、けじめが欲しかった。自分たちが運命に流されているのではなく、この血塗られた道を、選んだのだということを。
初陣の日も、雪が降っていた。
 アストラルクスの雪は、ドロップのようだった。赤や青やオレンジなど、色とりどりの美しさを奏でている。これからダエモニアと闘うことなど、嘘のように。
 だが、現実にダエモニアは存在した。転送装置からアストラルクスに入ったひなたとアメリーの目の前に。
 そのダエモニアは、蜘蛛のような節足動物の形状をし、刃物のような足が何本も生えている。ギロリとこちらに向ける目玉は、乳白色に濁っている。色とりどりの雪が、その邪悪な気を感じとったかのように、ダエモニアを避けていく。
 二人は、エティアとアリエルの指示で、街なかにいたダエモニアを、余津浜の外れにある野球場まで追い込んでいた。
 ダエモニアは呼吸をするたびに、息が漏れ出ているかのような不快な音を響かせている。
 ひなたはフランツ・カフカ『変身』の冒頭の一節を思い出す。
このダエモニアも、人間なんだ。
決めた覚悟が一瞬にして揺らぐ。だが、もうさいは投げられている。 「行くぞ!」
 アリエルの低い声が届くと同時に、ひなたとアメリーの身体に、自然と力が入る。
 ひなたは『太陽』のカードから剣を、アメリーは『恋人』のカードからボウガンを取り出す。
 二人は、刃物のような足を振り回すダエモニアの前に出て、武器を構える。
「引きつけてダメージを与えろ! 後方から援護する!」
「はいっ!」
 アリエルの言葉に、二人は頷く。
 もう、後には引けない。
「#$%〟#」
 ダエモニアが激しく咆哮した。足の部分から繰り出された刃物が、二人に向かってブーメランのように飛んでくる。
 咄嗟とっさにひなたは右に、アメリーは左へと避け、ポジションを確保する。
「えぇぇぃっ!」
 まず、攻撃を始めたのはアメリーだった。
 基本的な身体能力はひなたの方が上だが、チアの踊りをマスターしたせいなのか、身体の動きがリズミカルになっている。
 宙で体勢を整えたアメリーは、流れるような動きで、ダエモニアに向けてボウガンを力一杯放つ。その所作一つ一つが、まるで踊りのようにも見える。
 光を帯びたボウガンの矢は、足の付け根に命中。十本あったうちの刃物の足が、一つもげる。ダエモニアはもがき苦しんでいる。
「!」
 その姿に一瞬、ひなたもアメリーも躊躇する。だが、ダエモニアはすぐにアメリーに向けて、何本もの針を口から吐き出す。
「きゃっ!」
「アメリー!」
 瞬間、鋭い光線と共に、辺りが明るくなる。
 まぶしさに見ると、巨大な菱形の鏡が盾となり、針の雨を反射し、アメリーを防御する。
「エティアさん!」
 『世界』のカードを手にし、宙にきらめく菱形の鏡の傍らに、エティアが立っている。テネブライ・モードになったその姿は、いつもの優しさと共に凛々りりしさを湛えている。
「防御はこちらで引き受けます。ひなた、アメリー……闘ってください」
「……はい」
 二人は静かに頷き、ダエモニアを見据える。
「審判の鉄槌よ……天界の力を我に!」
 突如、アリエルが詠唱した。
 その傍らに『審判』のカードが現れる。すると光を帯びたカードの中から現れた、『審判の書』が、アリエルの手元に収まった。
 瞬間、書から発光体のような天使達が、一斉に姿を現す。
 天使達はダエモニアに向かっていき、その腹部を囲む。すると、光を帯びた腹の中に、黒いカードのような物が浮かび上がった。
「あれが『ディアボロス・タロット』。ダエモニアの急所だ」
「急所……」
 その言葉に、ひなたとアメリーはびくっと身を固くする。
 あそこを攻撃することは、殲滅することであり、人を──。
「行きます!」
 ひなたは、心に去来した苦しみを振り払い、剣を握りしめると、ダエモニアの前へと飛び出していく。
「アメリー、ダエモニアをスタジアムの壁際に追い込んで反転させて!」
「わかった! いっけぇぇっ!」
 アメリーはダエモニアの足下に、ひたすらボウガンを連射する。ダエモニアは刃物の足をガキンガキンと音をさせて、逃げるように斜めに歪んだスタジアムの壁へと向かい、壁を登り始める。
「世界の光よ!」
 エティアが叫んだ瞬間、突如、壁が鏡のように変化し、その中から光が反射する。
「#%〟$」
 眩しい光に耐えられず、激しく咆哮したダエモニアは、慌てて鏡から離れようと飛び跳ねる。
「ひなた、あれを!」
「うん」
 ひなたとアメリーは同時に宙に舞い上がり、向かい合った状態で手を繋ぎ、片膝をついたランジの体勢になると、くるくると回転を始める。まるで回る独楽のように、周りの空気を弾きながらダエモニアに近づいていく。
「これが私達の必殺技!」
「あたし達の……儀式!」
 この必殺技は、まだ、ダエモニアを倒す本当の意味を知らない頃に、作られたものだった。その罪深く、無邪気な技を使うことによって、二人は、自分の胸に、消えない痕を刻むことを選んだのだ。
 勢いのついた二人は、壁際のダエモニアに、それこそ独楽のように周りながらダメージを与える。抵抗するダエモニアの、刃物のような足がもげ、辺りに飛び散る。
「#%&$」
 咆哮するダエモニアの声を、ひなたはどこか遠くに聞いていた。いや、聞かないようにしていた、という方が正しいのかもしれない。
 深いダメージを負ったダエモニアは、最後の力を振り絞って、残った二枚の刃をクロスさせる。ギュインと耳障りな音を立て、二枚の刃と独楽は攻防するが、ダエモニアは更に力を加えた。刃が折れると同時にひなたとアメリーを外に弾く。
 二人は飛ばされながらも、なんとか体勢を整えた。
 ダエモニアは、仰向けになったまま、動けない。反転しようにも、もう足の代わりになっていた刃物は、一本も残っていなかった。
「ひなた、とどめを!」
 アリエルの低い声が、ひなたの耳に届く。
とどめ、殲滅、死──。
ひなたの脳裏に、雪の日に見た余津浜の人たちが浮かんでくる。
 名前も知らない人たち。どんな幸せを、どんな不幸を、どんな人生を歩いていたのか、私は知らない。もし、いつかそのことを知ることができる日が来たら──この痛みは、軽くなるのだろうか? それとも、重くなるのだろうか──?
ひなたは、高く高く宙に跳躍する。トップにきたところで、ひなたは剣を垂直に構えた。
「はぁぁぁっ!」
 腹の底からわき上がる声。まるで自分の声ではないような、低く、重みのあるその声音。
 そのまま、仰向けで動きの取れないダエモニアの腹部──ディアボロス・タロットを目がけ、蜂のように速く、一直線に下へ下へと突き進む。
 腹部に含まれた、薄紫に光る球の中に『隠者』のディアボロス・タロットが見えてくる。
 握った柄を、ひなたは両手で握りしめる。
 深く響く、ひなたの声。
 剣はダエモニアの腹部を貫き、その尖端が球へと達する。ひなたの手に、臓物を刺した時のような柔らかい感触が伝わってくる。
「!」
 思わず、剣を離しそうになるのを堪える。殲滅しなくて済むのなら──いや、しなければ、全てのことの意味がなくなってしまう。
「はぁぁぁっ!」
 目をつむったひなたは、そのまま剣をさらに中へと押し込む。
剣先はディアボロス・タロットを貫いた──。
ひなたが目を開いたときには、雪が降っていた。白い雪が。
 現実世界に戻った時──ひなたの前には、ダエモニアだった男性が倒れていた。
 おびただしい血が流れている。男性の灰色のズボンは、赤茶色に染まり、片方の靴が脱げていた。
 アメリーは思わず、口に手を当て、目の前の光景から顔を反らす。
 ひなたには、現実感がなかった。今この瞬間、ダエモニアを──人を、殺してしまったことを。
「……違う、現実だ」
 ひなたは、自分に言い聞かせるように呟く。受け止めなければならない現実。自分が選んだこと、覚悟したことは、こういうことなのだ。
 けれど。
 ひなたは後ろに立つエティアとアリエルに振り返る。
「ダエモニアが人だなんて、どうして、私達に知らせたんですか?」
「…………」
「……言わないでいてくれた方が幸せだったかもしれません」
  ふっと、淋しそうにひなたは二人を見た。
「ひなた」
 アメリーがひなたに駆け寄り、その肩を抱いた。
「……ごめんなさい」
 小さな声でエティアが呟く。するとひなたは、真剣な顔でエティアとアリエルを見た。
「でも、覚悟はできています。私達が止めなければ、終わらない……」
 雪は降り続いた。この世の全てを、覆い隠すように──。
それからのち、ひなたとアメリーはダエモニアと戦い続けた。余津浜の街が主ではあったが、命令を受け、時には首都や北方、南方に遠征に行くこともあった。
 三年もすると、ひなたの同級生達は、セフィロ・フィオーレから卒業していったが、二人は表向き、事務要員としてここに残ることとなった。
 チアで一緒だったメンバーの、猫目の久美子と、ツインテールのサチは、学校に残った。
 『デュプリケート・カード』の研究に力を入れ、タロット使いの人員を増やすため、カードと相性のよかった二人が選ばれたのだ。
 ボブカットの蘭も『デュプリケート・カード』に志願したがかなわず、卒業することが決まった。卒業式の前日、久美子とサチ、ひなたとアメリーは、蘭の送別会を行った。ひなたが焼いた桜をあしらったロールケーキを、五人で泣きながら食べた。
年齢を重ねるごとに、ひなたの剣は大きくなっていった。それは『エレメンタル能力』が増大していったことであり、それにつれ、ダエモニアを殲滅する能力も高くなっていく。
 一方のアメリーも、武器のボウガンだけではなく、オレンジ・ブロッサムの花びらでダエモニアを惑わす、幻惑能力を使えるようになっていた。
だが、あの必殺技を使うことは、もうなかった。
それから二人は毎年、エティアとアリエルと共に、セフィロ・フィオーレにあるダエモニアの慰霊碑に花を手向けていた。
 ダエモニアを殲滅した後は、ダエモニアに関わった人々の記憶は完全に消されてしまう。それは、ダエモニアという存在を世間に知られない為、そして同じように『エレメンタル・タロット』と、タロット使いという存在を、血族以外に知られない為でもあった。
 誰にも知られないまま、ひっそりと消えてしまい、存在すらなかったことになってしまう人達──。
 どんな人生を送り、何故ダエモニアになったのかはわからない。だが、せめてできることがあれば、と、花を供える。
そうしている間に、十年の月日が流れ、ひなたもアメリーも、二十三歳になろうとしていた。
         *     *
十年の間に、セフィロ・フィオーレ内部も変化を遂げていた。
『デュプリケート・カード』の研究が進んだことにより、一学年の募集人員を十人まで削減した。面接の際に、カードと相性のいい生徒だけを入学させることになったのである。そのお陰で、百人いた生徒達は、三十人になった。
 今年は十年ぶりに、直系の生徒が入ってくることを、ひなたとアメリーは、エティアから聞いていた。
「どんな子達なんだろうね~?」
「将来的には、私達と一緒に闘うことになるのかな?」
 ひなたとアメリーは、中庭へと歩いていく。すると、庭の隅で、エキゾチックな雰囲気を漂わせながらもまだあどけない少女が、見事なジャグリングを披露しているのが見える。
「わあ、すごい、上手……!」
「うん」
 ジャグリングの少女の前には、魔術師のような帽子を被った少女が、それを熱心に見つめていた。二人ともまだ、十歳になる前ぐらいに見える。
 ジャグリングが終わると、帽子を被った少女が盛大に拍手する。
「すごい、すごいよプリシラ!」
「へへーん、これでちょっとは元気になった? メルティナ?」
「……うん、ありがとう!」
 メルティナと呼ばれた少女は、満面の笑みを浮かべる。それに釣られて、プリシラと呼ばれた少女も笑っていた。
「あの子達が直系だよ」
 いつの間にか二人の横には、久美とサチが立っていた。『デュプリケート・カード』使いになっていた二人は、ひなた達、直系の秘密や、ダエモニアのことを知る立場となっていた。
「二人とも、家族が訳ありで、ちょっと早く入学させたんだって。覚醒はまだ少し、先かもしれないけど」
「あの子達が……」
 あどけない表情をした二人に、ひなたとアメリーは、昔の自分を重ねる。今なら、エティアとアリエルの苦しみが、ほんの少しだけわかるような気がする。
 あの子達が覚醒し、一緒に闘うことになったら、少しでも、タロット使いとして、私達が感じたことを伝えていこう。その苦しみを、ほんの少しだけでも、救えるように──。
 ひなたもアメリーも、同じ気持ちだった。
 だが、この先、ひなたとアメリーが、プリシラとメルティナと、一緒に闘うことはなかったのである。
       *     *
午後の研究棟は、初夏の強い日差しによって、さらに無機質な白さを浮き立たせていた。
 研究室の高取肇は、白井教授から依頼されたカルテを見つめて一つ、ため息をつく。そこには、直系であるタロット使い、太陽ひなたとアメリー・ラムールの名前が記されている。
「人間には興味がない……」
 高取はメガネで指を軽く上げ、カルテを机の上に投げ捨てた。
主任研究員となった高取肇は、研究所において、白井教授に続くナンバー2になっていた。それは二十五歳にして、セフィロ・フィオーレ内での、異例の出世だ。
 白井教授は元々、産学連携の一環として呼ばれた某大学の教授である。元々、宗教学や人文学を専門とする白井教授に対し、科学的なアプローチから仮説を提唱したのが高取だった。
 従来提唱されていた、ダエモニアが人に乗り移る、とか、取り憑く、という精神論ではなく、いわば病気のように──たとえば、ウイルスによって感染するのではないか?
いささか飛躍した発想だったが、高取は確信していた。
 殲滅したダエモニアから、誰にも気づかれぬようサンプルを集め、その遺伝子や細胞を解析した。
 いくつか研究を重ねていくうちに、細胞の中にある、共通したウイルスのようなものを見つけた。
 もし、自分の仮説が正しければ、アストラルクスでこのウイルスは、『ディアボロス・タロット』となるのではないか──?
 研究棟にあった、シミュレーター訓練機で、そのウイルスがディアボロス・タロットであることを、高取は突き止めた。
 論文を発表した高取は、あれよあれよという間に、やや独善的な白井教授のやり方に異を唱えていた派閥勢力によって、御輿として担ぎ上げられる。だがもちろん、高取はそんなものに興味はなかった。
 その高取の性格を見越し、一度、白井教授が懐柔を試みる。だが、研究をするための潤沢な資金さえあれば良く、面倒な派閥争いに巻き込まれるのは、むしろ迷惑だった高取は、その申し出を突っぱねる。それ以来、面子を潰された白井教授は、高取に対し、快く思わなくなっていった。
今回の研究依頼も、半分白井教授の嫌がらせだろう、と高取はやれやれと息をつく。エレメンタル能力を使う直系を、研究して欲しいという言うのだ。
 これから彼女達はこの研究室にやってくる。気が重い。僕には必要のない研究だ。ダエモニアの研究で結果を出したのに、何故人間なんかと向き合わなければならないのか。
 ほどなくして、ノックの音が響いた。
「どうぞ」
 ぶっきらぼうに答えたその後に、二人の女性が研究室に入ってきた。
「太陽ひなたです」
「アメリー・ラムールで~す!」
「よろしくお願いします」
 声をそろえて二人がお辞儀をした途端、高取は立ち上がって、急いで窓を開けた。
「え、あの……?」
 その行為に、二人はきょとんとしている。これだから女は、と、声にならない声でつぶやく。
「……ふん、林檎とネロリの香水ですか? 次回からはやめてください。研究結果に支障が出ます」
 高取は、早口でひなたとアメリーにまくし立てる。
「なっ……!」
「アメリー! ……あの、すみませんでした。これから気をつけます」
 瞬間湯沸かし器のように、怒りを露わにしかけたアメリーを、ひなたがなだめる。
 高取は、ひなたの髪の色を見て思う。このひまわりのような色は、以前に見たことがあったような気がする。だが、すぐにそんなことはどうでもよくなってくる。
 何にせよ、女はめんどくさい、と高取は思った。
 机の上からファイルを取り出すと、ぶっきらぼうに高取は二人に渡した。
「さっさと終わらせましょう。そのファイルのアンケートに答えたら、帰って下さい」
バンっと、研究室のドアが勢いよく開く。中からアメリーが、カツカツとヒールを鳴らし、般若のような顔で出てきた。
「ま、待ってよアメリー!」
 その後を、慌ててひなたが追いかけていく。ひなたは一瞬、研究室の方を振り返る。
 研究室の中の高取は、もう何か別の作業を始めていた。ひなたは扉を丁寧に閉めると、再びアメリーを追いかけた。
 渡り廊下の真ん中で立ち止まったアメリーは、やってくるひなたに向けて言い放った。
「もう、感じ悪い! サチと久美の紹介だし、どうしても直系の研究したいって言うから、わざわざ出向いてあげたのに~。あの態度はないよ~!」
「確かにね……でも、ちょっと忙しくてイライラしてたのかもしれないよ?」
「またそんな優しいこと言って! ああいう自分の事とか、研究の事しか考えてなくて、人の気持ちも考えられないコミュニケーション能力が欠如してる男なんて、庇う価値なし!」
「……ばっさり言ったね、アメリー……」
 ひなたは、軽く苦笑いをする。
でも、とひなたは思う。
 これまで、セフィロ・フィオーレの内部の人としか接触してこなかったひなたにとって、研究棟の人との関わりは、好奇心を刺激する物だった。それに、自分のことを調べて貰えば、『エレメンタル能力』のことが、もっとわかるかもしれない。今まで、主観的に、何となくしかわからなかった力のことを、客観的に知ることができるかもしれない──。
 高取との邂逅に、新しい可能性を見いだしたひなたの胸は、知らず知らずのうちに高鳴っていた。
〔4話へ続く〕